子規堂

子規堂 子規が幼少の頃過ごした自宅を復元した子規堂、ゆかりの品々など展示させていただいております。俳人・正岡子規の生涯や作品、そして松山のまちとの関わりなど発信していきます。

正岡子規が17歳まで暮らした家を復元した記念堂。
子規の菩提寺である正宗禅寺[しょうじゅうぜんじ]境内に立つ。直筆原稿や遺墨、遺品などの展示品から筆まめで鋭敏な子規の性格を感じとることができる。愛用の机や座布団もみもの。
また境内には子規埋髪塔や夏目漱石が小説の中で「マッチ箱のような汽車」と評した通称「坊っちゃん列車」の客車もある。

子規堂の拝観料は大人一人50円です。

「秋山兄弟生誕地」先の投稿でご紹介した「坂の上の雲ミュージアム」。小説『坂の上の雲』の主人公は、秋山好古・真之兄弟と正岡子規の3人です。特に弟・真之は、子規さんとは松山中学校時代の同級生で、親しい友人でもありました。ということで今回は、その...
30/08/2026

「秋山兄弟生誕地」

先の投稿でご紹介した「坂の上の雲ミュージアム」。
小説『坂の上の雲』の主人公は、秋山好古・真之兄弟と正岡子規の3人です。
特に弟・真之は、子規さんとは松山中学校時代の同級生で、親しい友人でもありました。

ということで今回は、その秋山兄弟が生まれ育った場所、「秋山兄弟生誕地」へ。

松山市歩行町にあるこちらには、秋山家の旧宅が復元されています。
畳に上がることはできないようですが、家の裏手に回ると縁側に沿って、兄・好古と弟・真之の写真や書など、さまざまな資料が展示されています。

表の庭には、弟・真之の胸像と、兄・好古の騎馬像も。

平成16年、多くの方々から寄せられた募金によって復元された秋山兄弟生誕地。
坂の上の雲ミュージアムや、松山城のロープウェイ乗り場にもほど近い歩行町にあります。

ぜひ併せてお立ち寄り下さいませ。

「坂の上の雲ミュージアム」今回は、松山市の「坂の上の雲ミュージアム」へ。司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』は、明治日本の歩みを、松山出身の秋山好古・真之兄弟と正岡子規を中心に描いた長編作品です。松山ゆかりの3人が主人公という、松山市民にはうれし...
27/08/2026

「坂の上の雲ミュージアム」

今回は、松山市の「坂の上の雲ミュージアム」へ。

司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』は、明治日本の歩みを、松山出身の秋山好古・真之兄弟と正岡子規を中心に描いた長編作品です。松山ゆかりの3人が主人公という、松山市民にはうれしい物語でもあります。

2007年に開館した坂の上の雲ミュージアムは、「坂の上の雲のまちづくり」の中核施設。市内各地のゆかりの場所を結び、松山全体を「屋根のない博物館」に見立てる構想の拠点となりました。

これまで館長散歩でご紹介してきた、子規さんゆかりの場所に立つ案内板の多くも、この取り組みの中で整備されたものです。

久しぶりに訪ねましたが、安藤忠雄設計の建物はやはり印象的。館内は涼しく、展示も見応えがあります。入口ではうちわが配られ、「クーラーまであと40m」と風鈴が並ぶなど、暑さ対策にも心遣いが感じられました。

子規さんゆかりのスポットの一つとして、松山にお越しの際はぜひお立ち寄りください。

「松山市内に残る木子七郎建築」今回は、建築家・木子七郎をご紹介します。「木子七郎って誰?」と思われるかもしれませんが、大正から昭和初期にかけて活躍した建築家です。松山の方なら、「愛媛県庁本館」や「萬翠荘」を設計した人、と聞けばピンと来るかも...
24/08/2026

「松山市内に残る木子七郎建築」

今回は、建築家・木子七郎をご紹介します。

「木子七郎って誰?」と思われるかもしれませんが、大正から昭和初期にかけて活躍した建築家です。

松山の方なら、「愛媛県庁本館」や「萬翠荘」を設計した人、と聞けばピンと来るかもしれません。

ほかにも、三津の「石崎汽船本社」、垣生の「鍵谷カナ頌功堂」が現在まで残り、いずれも文化財として大切に保存されています。

では、なぜ子規堂のアカウントで木子七郎をご紹介するのか。

現在の子規堂は三代目。
過去に二度、火災で失われています。

そして昭和10年に再建された二代目子規堂を設計したのが、実は木子七郎でした。

昨日8月23日に開催した、親子で調べるワークショップ「子規堂の謎」でも、二代目子規堂と再建の歴史を取り上げました。
ご参加いただいた親子の皆さま、ありがとうございました。

松山に残る木子七郎建築を訪ねながら、今は写真でしか見ることのできない二代目子規堂にも思いをはせていただけたらと思います。

ところで、明治~昭和初期頃のこうした建物は大事に保存されていますが、昭和期、特に戦後の現役建築物が今、老朽化や耐震対応などを理由に、全国各地で取り壊され建て替えられているようです。50年後100年後の方たちが昭和戦後の建築文化を感じられる建物が将来に渡って残る、そんな機運が醸成されることを個人的には期待したいところです。

「松山の俳句熱が生まれた場所」今回は、番町小学校の校門脇に立つ「松風会ゆかりの松山市立高等小学校跡」の標柱をご紹介します。明治時代、この周辺には学校が置かれていました。学制の変更などにより名称や場所はたびたび変わりましたが、明治27年、この...
21/08/2026

「松山の俳句熱が生まれた場所」

今回は、番町小学校の校門脇に立つ
「松風会ゆかりの松山市立高等小学校跡」の標柱をご紹介します。

明治時代、この周辺には学校が置かれていました。学制の変更などにより名称や場所はたびたび変わりましたが、明治27年、この地にあった松山市立高等小学校の教員たちを中心に、子規直系の日本派俳句結社「松風会」が結成されました。のちに柳原極堂も加わります。

明治28年、療養のため松山へ帰った子規さんが愚陀仏庵に滞在すると、松風会の仲間たちは連日のように一階の子規さんの部屋へ集まり、俳句の指導を受けました。

二階にいた漱石さんも、その輪に加わります。
本人は半ば仕方なく参加したように語っていますが、さて、本当のところはどうだったのでしょう(笑)。

こうして松山の俳句熱は大いに盛り上がりました。

子規さんが東京へ戻った後、その火を消したくないと考えた柳原極堂は、明治30年に俳誌『ほとゝぎす』を創刊。のちに東京の高浜虚子へ引き継がれ、『ホトトギス』として全国へ大きく広がっていきます。

松山市内の小学生は、今も夏休みの宿題で俳句を作るそうです。
そして本日8/21は今年の「俳句甲子園」開会式。

松風会の時代に燃え上がった俳句の「熱」が、今の松山にも受け継がれているようですね。

「漱石さんが通った道」今回は、二番町通り沿い、NTT西日本四国支店ビル前にある・「漱石ゆかりの松山中学校跡」の碑・「漱石先生のみち」の案内板をご紹介します。この場所には、現在の松山東高校の前身にあたる松山中学校がありました。明治28年、夏目...
18/08/2026

「漱石さんが通った道」

今回は、二番町通り沿い、NTT西日本四国支店ビル前にある

・「漱石ゆかりの松山中学校跡」の碑
・「漱石先生のみち」の案内板

をご紹介します。

この場所には、現在の松山東高校の前身にあたる松山中学校がありました。

明治28年、夏目漱石は英語教師として松山へ赴任。
当初は城山中腹の「愛松亭」に住み、その後、二番町の下宿「愚陀仏庵」へ移りました。

漱石さんは後年、子規さんが「僕が承知もしないうちに」転がり込んできた、と振り返っていますが、
一方で近年、病気療養で帰松する子規さんを迎えるため、坂道のない平地の下宿に移ったのではないか、という説も発表されています。

はたして偶然だったのか、それとも友人を迎えるための漱石さんの心遣いだったのか――。
そんなことを想像しながら歩くのも、文学散歩の楽しみかもしれませんね。

愚陀佛庵跡から少し北へ進み、二番町通りを西へ歩けば、松山中学校跡まではわずかな距離。
漱石さんも、このあたりを毎日のように歩いて学校へ通ったのでしょうか。

「漱石ゆかりの松山中学校跡」の碑は、昭和37年、当時の四国電気通信局の庁舎建設にあわせて建てられました。その後、NTT西日本四国支店ビルの建て替えに伴い、現在の二番町通り沿いへ移されています。

愚陀佛庵跡から松山中学校跡へ。
地図を片手に、漱石さんの通勤風景を想像しながら歩いてみるのも楽しそうですね。

本日は8月15日、終戦の日です。先の大戦で犠牲となられたすべての方々に、改めて哀悼の意を表します。松山でも昭和20年7月の空襲により、市街地の多くが焼失しました。その中には「子規堂」も、そして子規さんと漱石さんが52日間をともに過ごした「愚...
15/08/2026

本日は8月15日、終戦の日です。
先の大戦で犠牲となられたすべての方々に、改めて哀悼の意を表します。

松山でも昭和20年7月の空襲により、市街地の多くが焼失しました。
その中には「子規堂」も、そして子規さんと漱石さんが52日間をともに過ごした「愚陀佛庵」もありました。

そこで今日は、7月24日に再々建された「愚陀佛庵」を改めてご紹介します。

愚陀佛庵は、明治28年、松山市二番町にあった上野家の離れ。
松山中学校の教師として赴任していた漱石さんの下宿に、療養のため帰郷した子規さんを招き入れ、二人で暮らしました。

元の建物は松山空襲で焼失。
昭和期に城山中腹へ一度復元されましたが、平成22年の土砂崩れにより、再び失われました。

そして今回、松山市立番町小学校の南側に再々建されました。

番町小学校は、子規さんが通った勝山学校の流れをくむ小学校です。
また、明治28年に愚陀佛庵へ集まり、盛んに句会を開いた「松風会」も、当時この地にあった松山高等小学校の教員を中心に結成されました。

再々建された愚陀佛庵は入場無料。
館内は空調も整い、暑い時期にもゆっくり見学できます。
隣接するガイダンス棟では、漱石さんと子規さんの交流や、市内に点在する文学・俳句ゆかりの地をタッチパネルで紹介しています。
子規堂もしっかりご案内いただいていました。ありがとうございます。

松山市内の文学散歩の折には、ぜひお立ち寄りください。

「虚子と子規の交流が始まった場所」松山市二番町。飲食店が並ぶ街なかの一角に、「高浜虚子住居跡」の案内板があります。高浜虚子は、明治12年から京都の第三高等学校へ進学するまで、この地で暮らしました。虚子の部屋は、日当たりのよい二階の五畳間だっ...
12/08/2026

「虚子と子規の交流が始まった場所」

松山市二番町。
飲食店が並ぶ街なかの一角に、「高浜虚子住居跡」の案内板があります。

高浜虚子は、明治12年から京都の第三高等学校へ進学するまで、この地で暮らしました。
虚子の部屋は、日当たりのよい二階の五畳間だったそうです。

明治24年5月23日、17歳の虚子はこの部屋で、河東碧梧桐の紹介を受け、東京にいた正岡子規へ交際を願う手紙を書きました。

その夏、帰省した子規さんと初対面し、10月には「虚子」という号を与えられます。

のちに虚子は子規門を代表する俳人となり、松山で創刊された『ほとゝぎす』を東京へ引き継ぎ、日本の俳句界に大きな足跡を残しました。

今は建物も残っていませんが、ここは、若き虚子と子規の交流が始まり、のちの俳句界へとつながる物語が動き始めた場所です。

「子規が、懐かしい先生を思った場所」子規さんの旧宅から南へ少し。住宅地の一角に「浦屋雲林邸跡」の標柱が立っています。浦屋雲林は漢学者で、この地に私塾「桃源黌」を開きました。明治13年頃、まだ俳句に出会う前の子規さんは、河東静渓の塾で詩作を、...
09/08/2026

「子規が、懐かしい先生を思った場所」

子規さんの旧宅から南へ少し。
住宅地の一角に「浦屋雲林邸跡」の標柱が立っています。

浦屋雲林は漢学者で、この地に私塾「桃源黌」を開きました。

明治13年頃、まだ俳句に出会う前の子規さんは、河東静渓の塾で詩作を、ここ浦屋雲林の塾で漢詩を学びました。
二つの私塾は、少年・子規が詩と学問に夢中になった時代を伝える場所です。

それから十数年後の明治28年10月2日。
療養のため松山に帰り、愚陀仏庵で漱石と暮らしていた子規さんは、散歩の途中、懐かしい先生の家の前を通りかかりました。

この日の句が、『散策集』に収められています。

花木槿 雲林先生 恙なきや

「先生はお元気だろうか」――。
かつての恩師を思う気持ちが伝わる一句です。

今は標柱だけですが、ここには詩や漢詩に励んだ少年・子規と、恩師を懐かしむ青年・子規、二つの時間が重なっています。

今日は「愚陀仏庵」跡地にやってきました。今の松山三越の裏手、現在は「愚陀仏庵パーク」というコインパーキングになっています。「愚陀仏庵」は、夏目漱石と正岡子規が52日間、一緒に暮らした場所です。明治28年、日清戦争の取材から病を悪化させて帰国...
06/08/2026

今日は「愚陀仏庵」跡地にやってきました。
今の松山三越の裏手、現在は「愚陀仏庵パーク」というコインパーキングになっています。

「愚陀仏庵」は、夏目漱石と正岡子規が52日間、一緒に暮らした場所です。

明治28年、日清戦争の取材から病を悪化させて帰国した子規さんは、静養のため故郷・松山へ。
しかし当時、母と妹は東京に移り家も引き払っており、松山に戻るべき実家がない状態でした。

そこで身を寄せたのが、当時松山中学校の教師として赴任していた漱石さんの下宿「愚陀仏庵」でした。(漱石さんが子規さんを呼び寄せたとの説もあります)

子規さんは1階、漱石さんは2階。
柳原極堂ら「松風会」の俳人たちも連日のように集まり、句会を開きました。
漱石さんもその輪に加わったといいます。

共に過ごしたのは、わずか52日間。
しかし、この日々は松山の俳句、そして日本の近代文学に大きな影響を残しました。

「愚陀仏庵」は去る7月24日、子規さんゆかりの番町小学校に再建されました。
跡地と、新しく再建された愚陀仏庵。ぜひ併せて訪ねてみてください。

『子規の“学びの原点”は、おじいちゃんの家にあった』今回のお散歩は「大原観山住居跡」です。大原観山は、子規母方の祖父。幕末には松山藩の明教館で教え、維新後も塾を開いて子どもたちを育てた、松山を代表する教育者の一人でした。子規は小学校に入る前...
03/08/2026

『子規の“学びの原点”は、おじいちゃんの家にあった』

今回のお散歩は「大原観山住居跡」です。

大原観山は、子規母方の祖父。幕末には松山藩の明教館で教え、維新後も塾を開いて子どもたちを育てた、松山を代表する教育者の一人でした。

子規は小学校に入る前、この観山の家で「素読」を教わっていたそうです。素読とは、漢文や漢詩を、まずは意味よりも声に出して読み、丸暗記する学び方。
私は丸暗記が大の苦手ですが(笑)、子規はとても覚えが良く、観山も教えるのを楽しみにしていたようです。

ただ、観山は大の西洋嫌いだったそうで、おかげで子規と親戚の三並良はなかなか髷(まげ)を切らせてもらえず、勝山学校に上がった明治8年にやっと切らせてもらったそうです。

観山の家は、現在の松山中央郵便局の少し南、先にご紹介した碧梧桐の家の一本東の筋沿いにありました。今は看板1枚しか残されていませんが、子規の生い立ちの家からも近く、幼い子規はここまで歩いて通っていたのでしょう。

子規の才能は、一人で育ったものではありません。家族、親戚、ご近所、師、そして友人たち。松山のまち全体が、少年子規の学びを支えていたのかもしれませんね。

住所

末広町16/3
Matsuyama, Ehime
790-0023

営業時間

月曜日 09:00 - 17:00
火曜日 09:00 - 17:00
水曜日 09:00 - 17:00
木曜日 09:00 - 17:00
金曜日 09:00 - 17:00
土曜日 09:00 - 17:00
日曜日 09:00 - 17:00

ウェブサイト

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