26/11/2025
昭和五十五年 三陸の渓流にて
来る日も来る日も、三陸の地にヤマセという冷たき風が吹き荒れ申した。
その冷たき霧の中を、拙者(せっしゃ)は釣り竿を片手に、小さき川筋に沿いし道を踏みしめておりました。
稲穂が頭を垂れ始める時節(じせつ)に候(そうら)えど、田には実りの気配は全く無く、直立したままの穂は、見渡す限り黒く染められておった。
いもち病という病(やまい)に侵され、稲は人に見放され、打ち捨てられし有様。さながら、戦に敗れし後の荒廃(こうはい)の如し。
山の連なりより、この辺りこそと見定め、畦道(あぜみち)を辿り、木々に覆われし川岸に立てば、目の前のせせらぎは、穏やかに拙者に語りかけてくるようでござる。もうそこには、世俗の出来事も、心の悩みも、すべて消え去りし**無念無想(むねんむそう)**の世界がある。
**テンカラ竿(ざお)**を伸ばし、これからの渓魚(けいぎょ)との出逢いを胸に描きつつ、糸の先に毛鉤(けばり)を結び申す。
テンカラとは、竿の弾力と**馬素(ばそ)**の力にて、まことに軽き毛鉤を、九メートルも先の水面まで飛ばす、我が国の釣りの作法なり。
普段、木陰や石の影に身を潜めておる渓魚は、水面を流れ来る毛鉤を見つけるや、そこより飛び出して参る。
毛鉤が、魚の餌食(えじき)となる点に流れ込めば、渓流魚は何の疑いも無く毛鉤を咥えてくれるが、所詮(しょせん)毛鉤は**偽物(にせもの)**なれば、直様(すぐさま)吐き出してしまい申す。
教科書には、吐き出すまでの時間は、山女魚(やまめ)は 0.2 秒、岩魚(いわな)は 0.4 秒とある。
摂食点を僅かでも離れて流れる毛鉤には、警戒心より、更に素早く反応し申す。
渓魚が毛鉤を咥えたのを確認してから「合わせ」をくれても、決して針を掛けることが叶わぬは、人の反射神経が約 0.4 秒というところより来ると聞く。九メートル先の毛鉤に合わせの力が伝わる頃には、渓魚は既に毛鉤を吐き出してしまっておる故(ゆえ)。
されば、毛鉤の周辺に渓魚の姿を察知した**刹那(せつな)**に「合わせ」をくれる事が肝要(かんよう)にて、姿を見た渓魚が毛鉤を咥えるまで 0.3 秒あると仮定せば、咥える前に合わせる事こそ、まことに肝要なる点なり。それでこそ渓魚の口に針が刺さるのでござる。餌食となる点を予測できれば、魚を仕留めるは、尚のこと容易(たやす)くなるというもの。
今でこそテンカラと呼ばれるこの和式の釣りは、愛好家も増え、遥か欧米でも流行(はや)りしと聞く。欧米にはフライフィッシングという毛鉤釣りの流儀がある。
テンカラと比べ、種々優れたる点はあるものの、日本の生い茂りし森の中を流れる狭き川では、何かと不都合多しと感じる。テンカラの**簡素(かんそ)**なる作法が広く受け入れられておるは、まことに結構な事と存じ申す。
話は脇道に逸れてしもうた。元に戻し申そう。
鏡のような穏やかな淵(ふち)をひと通り探りてから、淵への流れ込みの僅かな段差の上に狙いを定めた。そこは、川幅が狭まりし深き要所(ようしょ)になっていた。
何も考えること無く飛ばした毛鉤の下で、大きなる岩が緩りと動いた。本当に岩だと思いし。反射的に竿を煽(あお)ると、その岩と見紛う魚の口に毛鉤が刺さった!反転した時に悟り申した。魚は、脇腹が桃色と茶色に彩られし、見た目二尺を遥かに超すサクラマスに相違あるまい!
マスは凄まじき速さで上流へと**走り去り申す!手元より折れんばかりに湾曲(わんきょく)した竿を堪え(こらえ)ようと、小走りに付いて走った。走りながら、「この大物、仕留めること叶わぬ!これほどの剛の者(ごうのもの)、あろうはず無し!」**と内心叫び申した。
半ばパニック状態の拙者を引きずって走っておったマスは、突然下流へと反転した!それでも付いて走った!狭まりし流れまで戻って来たマスは、落差の下の落ち込みに、大きなる尾びれを見せて飛び込んでいった。
夢のような、刹那の時間でござった。風の中にフワリフワリと、虚しき毛鉤は漂っておった。
我に返り、毛鉤を手に取れば、太き針の**顎(あご)**が開いておった。
後悔の念は無かった。何か**叶わぬ強敵(きょうてき)**に立ち向かい、敗れし時の心地であった。
サクラマスは川に入りてからは、殆ど餌を取らずに、産卵までの長き期間を過ごすと聞く。なのになぜ、拙者の毛鉤を咥えたのか?
いや、喰おうとして咥えたわけでは無かろう。それこそが、彼らに備わりし本能なのであろう。反射的に反応するマス達、そして、反射的に毛鉤を操る拙者達。
そこには、狩る者と、狩られる者との垣根(かきね)を越えし、**共通の理(ことわり)**があると存じ申す。
僅かな悔しき気持ちと、言い表せぬ満足感を抱き、その夜は自宅で眠りについた。
真夜中に、夢を見た。夢の中であのサクラマスは、また姿を現した。拙者は思い切り「合わせ」をくれた!確かな手応えを感じて、**「取ったり!」と思った。天井に向かって右手を高く上げて、拙者は目覚めた。マスはどこにも居なかった。隣で寝ておった妻が、驚きて「いかがなされた、何事ぞ!?」と問うので、拙者は「叶わず」**と一言呟き、また深き眠りに落ち申した。