近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝 ‐日本の近代と慰霊の地を巡る‐(戦跡紀行ネット)

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‐日本の近代と慰霊の地を巡る‐
~近代史跡・戦争遺跡・慰霊巡拝~

「二引の旗章」信濃丸サロンチェアと「青い目の人形」(横浜・山手資料館)「敵艦見ユ」を打電した仮装巡洋艦(哨艦)「信濃丸」そんな信濃丸ゆかりの「椅子」が横浜に残っているので、足を運んでみた。 信濃丸 日本郵船の貨客船「信濃丸」日露戦争に際して...
20/07/2026

「二引の旗章」信濃丸サロンチェアと「青い目の人形」(横浜・山手資料館)

「敵艦見ユ」を打電した仮装巡洋艦(哨艦)「信濃丸」そんな信濃丸ゆかりの「椅子」が横浜に残っているので、足を運んでみた。 信濃丸 日本郵船の貨客船「信濃丸」日露戦争に際しては、仮装巡洋艦として哨戒中にバルチック艦隊を発見し、日本海海戦での日本海軍の勝利に貢献した。 信濃丸は日本郵船の貨客船として1900年4月に竣工。竣工後は欧州航路に就航したが、1901年にシアトル航路に転用。1903年には信濃丸で、永井荷風が渡米している。 1904年2月6日、日露戦争開戦。信濃丸は当初は、陸軍御用船として徴用されたが、12月に徴用解除。翌1905年3月15日に海軍に徴用され、呉鎮守府所属の仮装巡洋艦として整備された。仮装巡洋艦として十五栂安式速射砲1基、十二斤安式速射砲3基が兵装された。信濃丸は、4月に対馬海峡に移動し、哨戒任務にあたった。1904年5月27日午前2時45分、信濃丸は五島列島沖合を北東方面に向かって航行中に1隻の汽船・病院船「アリヨール」を発見。「アリヨール」に接近し回り込んだ結果、バルチック艦隊の列に入り込むかたちとなり、午前4時45分。信濃丸は直ちに転舵し、全速力で退避。三六式無線機にて「敵艦見ユ」として知られる一連の通報を送信しバルチック艦隊が確実に対馬海峡を目指していることを伝え、6時過ぎに巡洋艦「和泉」に引き継ぐまで触接を続けた。 翌5月28日、信濃丸と台南丸、八幡丸の仮装巡洋艦3隻は、沖ノ島北方海上で哨戒を行い、戦艦と駆逐艦を発見。八幡丸が駆逐艦を追跡し、信濃丸と台南丸が戦艦に接近すると、戦艦は前日の日本海海戦で大破損傷した「シソイ・ヴェリキィー」海防戦艦であった。「シソイ・ヴェリキィー」は降伏し、乗員は信濃丸と台南丸が救助。「シソイ・ヴェリキィー」は曳航を試みるも浸水が止まらずに沈没。6月、信濃丸は仮装巡洋艦としての役目を解かれ、徴用解除となった。 徴用解除後の信濃丸は、シアトル航路に復帰。のちに、神戸基隆航路に転じ、1913年の孫文亡命の際は、信濃丸に乗船している。 第一次大戦では徴用から免れ、1923年に日本郵船の近海航路部門が独立し「近海郵船」が設立。神戸基隆航路は近海郵船に継承され、信濃丸も移籍し、引き続き神戸基隆航路に就航した。 1929年に「北進汽船」に売却。1930年に「日魯漁業(ニチロ)」に売却され、蟹工船に改装。1932年に「太平洋漁業」に売却され、サケ・マス工船や北洋漁業の母船として活用。 1941年12月に勃発した太平洋戦争では、輸送船として徴用。水木しげるも陸軍兵士として乗船していた。1943年に「太平洋漁業」が「日魯漁業」に合併。信濃丸の所属は再び「日魯漁業」となった。すでに船歴40年近い老朽船であったが、無事に戦争を生き延びた。 戦後は、引揚船として、シベリアからの引揚者の輸送に従事。大岡昇平も同船で復員した。 1951年に船籍解除。スクラップとして売却解体された。日露戦争と第二次世界大戦と2度の徴用を受け戦没せずに戦後まで生き延びた「信濃丸」は、激動の51年の長き生涯を誇った強運船であった。 信濃丸サロンチェア 「二引(にびき)の旗」が彫られた重厚な椅子。 白地に引かれた二本の赤いライン通称「二引の旗章」日本郵船のシンボル 1885(明治18)年、郵便汽船三菱会社は、国内の競争相手であった共同運輸会社と合併し日本郵船会社が誕生する。当時の日本海運界を代表する三菱会社と共同運輸の二社が大合同したことを表すとともに、日本郵船の航路が地球を横断するという決意を示していた。 信濃丸の椅子は、横浜の「山手資料館」とレストラン「馬車道十番館」に残されている。「信濃丸」のサロンで使用されていたものを、廃船時に譲り受けたもの。 あら、青い目の人形さん。青い目の人形も戦争に関連する史跡(戦跡)のひとつ、ですね。 山手資料館 馬車道十番館に行くことがあれば、写真を追加するかもしれませんが、いったんはこれで。 青い目の人形 信濃丸の椅子に座っていた人形。「青い目の人形」 日米親善のため海を渡った人形。1927年(昭和2年)に日米関係の悪化を憂いたアメリカの牧師ギューリック博士らと渋沢栄一が中心となり、友情の証としてアメリカから日本の子供たちへ贈られた約1万2000体の人形。 ※深谷駅前の「渋沢栄一からくり時計」 人形をとおして相互の友情と交流を図り、日米両国民の理解と親善を深めようとして日本に贈られ、善意の人々の想いを抱いた「平和の親善大使」。米国から日本に送られたのが「青い目の人形」、その返礼として日本から米国に贈ったのが「市松人形」であった。 しかし、1941年(昭和16年)に太平洋戦争が勃発すると、アメリカは「敵国」とされ、人形は「敵国の人形」「スパイ人形」としてみなされるようになりました。その結果、多くの人形が竹槍で突かれたり、焼却されたり、池に沈められたりして処分される悲劇もあった。現在日本に残っている人形は、当時の先生や子供たちが校庭の隅や床下などに隠して守り抜いたごく一部(全体の約3%)という。 ※撮影:2026年5月

「敵艦見ユ」を打電した仮装巡洋艦(哨艦)「信濃丸」そんな信濃丸ゆかりの「椅子」が横浜に残っているので、足を運ん…

納豆売りから海軍軍令部次長へ「刻苦勉励の篤志家・斎藤七五郎海軍中将」(仙台市若林区荒町)仙台でちょっとした時間ができたので、仙台駅周辺で戦争関係の史跡を調べていたときに「斎藤七五郎記念元気広場(海軍中将斎藤七五郎生誕地)」という文字列を発見...
28/06/2026

納豆売りから海軍軍令部次長へ「刻苦勉励の篤志家・斎藤七五郎海軍中将」(仙台市若林区荒町)

仙台でちょっとした時間ができたので、仙台駅周辺で戦争関係の史跡を調べていたときに「斎藤七五郎記念元気広場(海軍中将斎藤七五郎生誕地)」という文字列を発見。これは?と目に止まり、調べてみました。こうして、知らなかった人物のことを調べるのは、知的好奇心が刺激されて楽しいですね。 以下、斎藤七五郎に関係する史跡に足を運んでみた記録。 斎藤七五郎 斎藤 七五郎(1870年1月13日[1](明治2年12月12日[2]) - 1926年(大正15年)7月23日)海兵20期恩賜、海大4期首席。最終階級は海軍中将。 仙台荒町の麹屋の家に生まれる。生家は貧しく納豆売りなどをして家計を助けた。海軍兵学校に20期として入学。1893年(明治26年)12月卒業。卒業順位3位で恩賜品を拝受。少尉候補生として「扶桑」に乗り組み日清戦争に従事。 1896年(明治29年)、一等戦艦「富士」廻航委員としてイギリス出張。ロンドンでは、南方熊楠と意気投合し大英博物館を一緒に訪れている。海軍大尉に進級し、「豊橋」分隊長、「金剛」砲術長、「鳥海」航海長、「千代田」航海長、呉鎮守府副官を歴任。 1902年(明治35年)、海軍大学校将校科甲種学生(4期)。このときの海軍大学校戦術教官が秋山真之。秋山真之が教官としてはじめて教えた生徒の一人が斎藤七五郎であり、日露戦争の参謀として先輩後輩の仲となる。 1904年(明治37年)、日露戦争に際して、海軍大学校を退校し第一艦隊参謀、連合艦隊参謀。連合艦隊先任参謀の有馬良橘中佐を中心とした旅順港封鎖作戦の策定に参加し、第1回閉塞作戦では「仁川丸」、第2回閉塞作戦では「弥彦丸」の指揮官として参加し勇名を馳せる。のちに旅順海戦の状況や戦況報告を 明治天皇の御前注進(直接の報告)申した。 日露戦争の終結後、1905年(明治38年)12月に海軍大学校に復学、1906年7月に首席で卒業し、第一艦隊参謀、練習艦隊参謀、出雲航海長、軍令部参謀、参謀本部部員を歴任し、1908年(明治41年)に海軍中佐進級。1910年(明治43年)2月からアメリカ駐在、翌年にイギリス駐在。1911年(明治44年)12月、敷島副長、翌1912年(大正元年)12月に海軍大学校教官、1913年(大正2年)12月、海軍大佐に進級。 その後、海軍省人事局員、人事局第1課長、人事局第2課長、八雲艦長、第三艦隊参謀長を歴任し、1918年(大正11年)12月、海軍少将に進級し、呉鎮守府参謀長に就任。 1920年(大正9年)12月、軍令部第1班長、1922年(大正11年)12月、海軍中将に進級すると同時に第5戦隊司令官に就任。 1923年(大正12年)6月、練習艦隊司令官。斎藤七五郎が練習艦隊司令官であった際の練習艦「磐手」艦長が米内光政であった。 翌24年に軍令部次長に就任するも、胃癌を発症し、1926年(大正15年)7月、軍令部次長在職のまま、満56歳で死去。 仙台市若林区荒町の生家の敷地は、斎藤七五郎の遺言により、1934年(昭和9年)に仙台市に寄付。生家跡は「斎藤記念館」となった。戦後は公共施設用地となり、2010年までは荒町市民センターが所在。荒町市民センターが移転後に「斎藤七五郎記念 元気広場」として整備され、斎藤七五郎顕彰碑が現存している。斎藤七五郎の遺品(練習艦隊司令官として遠洋航海を指揮した際の土産物など)は、荒町市民センターに展示されている。 齋藤七五郎記念 元気広場 齋藤七五郎記念 元気広場本広場は、齋藤七五郎氏の遺言”生家・私邸の一切を仙台市に寄付し、子弟の教育と社会の薫化の一端を資して欲しい”に依るものである。 平成23年 元気広場 協議会 齊藤七五郎頌德碑(石碑転記)至誠 海軍大将正三位勲一等功三級 有馬良橘 題額齋藤記念館記大正十五年七月二十三日 海軍々令部次長 海軍中将正四位勲一等功四級 齋藤公溘焉として易簀す。嗚呼惜しい哉 公、諱は七五郎、明治二年(一八六九年)十二月十二日 仙臺荒町の自邸に生まる。人と為り誠實勤勉、幼くして學を好む。其の家太富ならず。苦学力行以って家計を資く。人皆其の至性に感ずと云う。年甫弱冠、奮然として志を立て、海軍兵學校に入る。刻苦精励、優等にて卒業、特に双眼鏡を賜り、海軍少尉に任ぜられる。 明治三十七年日露戰役の興るや海軍大尉を以って従軍す。東卿聯合艦隊司今長官幕僚と為り、旅順口閉塞之事を進策す。擢られて仁川丸及び弥彦丸の指揮官と為り、奮聞して功有り。当時広瀬海軍中佐と並び称される。功を以って功四級に叙せられ、全鶏勲章を賜る。尋いで海軍少佐に進み海軍大學校教官に補さる。海軍中将に累進し大正十二年六月練習艦隊司令長官と為る。十三年四月抜擺されて海軍々令部次長に補さる。世學げて以って榮と為す。超すこと二年不幸にして病を獲て起ず。享壽五十有八。朝野歎惜せざるは莫し。 公、人格崇高、独力修養、誘掖を好まざれども、後進を諄々と教悔して終始渝らず。郷党の子弟之が為に立身し、名を為す者一にして足らず。公、幼き時荒町小學挾に學び、始めて讀書と習字とを知る。徳の深きに因って常に母抜の為に盡力す。前後金品を寄与するに枚挙に違あらず。其の卒する数日前、特に親友 鈴木重兵衛君を枕頭に延き、慇懃に遺嘱して曰く、 余の生家は母校と隣接して日タ就學す。 余の今日有るは即ち母校の賜なり。 乃って生家邸宅の一切を仙臺市に寄附し、 聊か子弟の教育、社会薰化の一端に資せんと欲す。 幸いにして之の利用を得れば則ち余の望足れり。 君余の為に之を謀らんことを願う。鈴木君感奮し泣きて焉を諾す。公の嗣子富士郎君、克く其の遺志を体して更に請うところあり。未亡人静子も亦、具状して公の意を懇陳す。 仙臺市長渋谷君感激惜かず。昭和九年三月具案して諸を市会に咨り、満場一致採納を可決す。是に於て邸宅利用の議起り、遂に齋藤記念館建設後援會組織さる。広く義金を募りしに、四方饗應、忽にして數千金を得たり。市会も亦其の學に賛し相議して市費を支出し以って之を大成せしむ。及ち材を鳩め匠を戒え昭和十二年四月起工、同年七月竣成す。...

仙台でちょっとした時間ができたので、仙台駅周辺で戦争関係の史跡を調べていたときに「斎藤七五郎記念元気広場(海軍…

「蕨空襲」埼玉県下で2番目の空襲被害を受けた街埼玉県蕨市。日本で一番面積の小さい「市」でも有名。ちなみに市区町村では8番目。また、市町村を五十音順で並べると、一番最後になる市町村でもある。 そんな蕨市(当時は蕨町)は、埼玉県下で熊谷に次ぐ二...
14/06/2026

「蕨空襲」埼玉県下で2番目の空襲被害を受けた街

埼玉県蕨市。日本で一番面積の小さい「市」でも有名。ちなみに市区町村では8番目。また、市町村を五十音順で並べると、一番最後になる市町村でもある。 そんな蕨市(当時は蕨町)は、埼玉県下で熊谷に次ぐ二番目の空襲被害のあった街でもあった。 蕨空襲 昭和20年、3度の空襲見舞われた蕨市。当時、蕨には軍事工場が複数あり、工場労働者が住む住宅密集地帯もあったことなどから、標的になったといわれている。 1回目は、昭和20年4月12日、昼過ぎ。東京を襲ったB29爆撃機とP51戦闘機部隊のうち8機が蕨上空に襲来。16発の1トン爆弾が投下され、死者36名、16戸の家が全壊。2回目は、翌日の4月13日午後8時過ぎから14日未明まで、10機ほどの編隊が無数の焼夷弾が投下、蕨の街は火の海となり、死者12人、362戸が焼失。そして、3回目は、昭和20年5月25日午後10時頃に焼夷弾が投下され、死者2名、3戸が焼失。 蕨市を襲った3度の空襲により、死者は50名、家屋の焼失や全壊・半壊などは400戸に上った。これは、埼玉県では、熊谷に次ぐ、大きな空襲被害であった。 なお、終戦時の蕨の世帯数は5885世帯。人口は25,279人。空襲被害割合は世帯・人口共に約7パーセントに及び、被害の多さがわかる。 広報・蕨(2010年8月) 広報・蕨(2015年8月) 蕨市>平和行政 なお、蕨駅西口にあった日本車輌製造・蕨工場(12万5400平方メートル)は、爆撃を受けなかった。それは、同工場に米軍捕虜が収容され、工場労働者として使役されていたから、米軍の空襲対象からは外されていたから、という。戦後、日本車輌製造・蕨工場では新幹線の試作車や、世界初の新幹線である量産車0系が製造され、「新幹線電車発祥の地」となっている。(現在の川口芝園団地) 平和祈念碑「平和を愛して」 春日公園は、1回目の蕨空襲のあった付近。 戦後50年・平和都市宣言10周年の平成7年、春日公園に「平和祈念碑」を設置された。彫刻は、田中毅氏。宮崎県出身で埼玉県在住の彫刻家。 平和を愛して 製作・田中毅 平和への願い 蔵市は、昭和60年9月9日「平和都市」と宣言し世界の恒久平和を願い、核兵器の廃絶を強く訴えている。 この地は、第二次世界大戦中の昭和20年4月12日と13日、そして5月25日の3日間空襲と受け、爆弾と焼夷弾などにより多くの尊い生命が犠牲となつた。県下でも熊谷市につぐ大きな被害であった。 本年は終戦から50年、歴史の大きな節目の年にあたる。この地に、市民の総意を込めて、平和のモニュメントを建立し、戦争という過ちを二度と繰り返すことなく、平和を守る決意を新たにする。  平成7年8月15日 蕨 市 地球儀は回転する。 蕨市春日公園 春日神社と蕨市公園が同一敷地に。 場所 平和之母子像 昭和63年、蕨市民公園に設置。彫刻家・岩田健氏(埼玉県川口市出身) 平和之母子像 蕨市平和都市宣言 昭和20年8月、広島、長崎に人類初の原子爆弾が投下され、早くも40年の歳月が流れました。 その間、唯―の被爆国である我が国は、恒久平和を崇高な理念として憲法に掲げ、自由と正義を愛し、世界平和に寄与してきました。 しかるに今、世界の超大国を中心とした核保有国が競って核軍備拡充を図っていることは、まことに脅威であり、この核軍拡競争に対して、世界のいたるところで、平和希求の叫びがとみに高まりつつあります。 このような国際情勢の中で、戦争は人間が起こすものであり、また人間の力によってこれを防ぐことができることをしっかりと心に刻み、平和で豊かな社会を次の世代に引き継いでいくことが、現代に生きる我々の責務であると考えます。 私たち蕨市民は、平和憲法の精神を守る立場から、非核三原則が厳守されることを強く希望し、世界のあらゆる国の核兵器の速やかな廃絶を願うものであります。 蕨市は、市民の平和を願う心を結集し、ここに「平和都市」であることを宣言いたします。  昭和60年9月9日 蕨市 平和之母子像建立 私たち蕨市民は、いつの時代でも平和の中で、家族みんなが健康で、母と子が地域社会の愛情に支えられて、温かい家庭生活を送れることが、何よりも幸せであると考えています。 しかし、この世にあの恐ろしい核兵器が存在する限り7万の市民が等しく希う真の平和はむなしいものとなっています。そこで、蕨市は昭和60年9月、敗戦40周年を記念して、この美しい地球から核兵器といたましい戦争をなくし、すべての生命が平和の中で育まれていくことを願い、平和都市を宣言しました。 私たちは、この宣言によって戦争の恐ろしさを、後世に伝えていかなければならない責務と平和への思いをあらたにしたのであります。 このたび、平和の砦を築きあげるために建立した平和之母子像は、彫刻家岩田健氏の手によって刻まれたもので、戦争を知らない世代にこれらのことを語り継ぎ、地球より重い命を守っていくことを、ここに誓ったのであります。  昭和63年4月3日 蕨市長 田中啓一 蕨市民公園に。 場所 ※撮影:2026年6月 関連

埼玉県蕨市。日本で一番面積の小さい「市」でも有名。ちなみに市区町村では8番目。また、市町村を五十音順で並べると…

「笹井戦災の跡」笹井白鬚神社と狭山に残る「奉安殿」流用の神社散策埼玉県狭山市。入間川の北、笹井地区に鎮座する「笹井白鬚神社」に戦災の跡が残るというので、足を運んでみました。あわせて、狭山市内の奉安殿を流用した建造物も散策してみました。 笹井...
31/05/2026

「笹井戦災の跡」笹井白鬚神社と狭山に残る「奉安殿」流用の神社散策

埼玉県狭山市。入間川の北、笹井地区に鎮座する「笹井白鬚神社」に戦災の跡が残るというので、足を運んでみました。あわせて、狭山市内の奉安殿を流用した建造物も散策してみました。 笹井戦災の跡(笹井白鬚神社) 昭和20年5月25日夜中(26日午前0時30分ごろ)の空襲によって、水富村笹井(狭山市笹井)から豊岡町黒須(入間市春日町)にかけての空襲では、5000発ともいわれる焼夷弾が落とされ、死者13名、負傷者10名、罹災者69家族346名にのぼったという。この空襲で笹井白鬚神社は、拝殿や社務所を焼失。しかし幸いにして、本殿は焼失を免れ、本殿奏上門は手前の破風が焦げたが全焼は免れた。奏上門の破風には、焼け焦げた跡が、往時の戦争の記憶を伝承するために今も残っている。 破風に残る焼け焦げた跡。焼夷弾の被害を物語る。 反対側は、類焼の被害なく。 対比させると、状態の違いが良くわかる。 笹井戦災の跡地 笹井戦災の跡地を示す標はあるが、細かい説明は無かった。せっかくなので、破風に残る焼け焦げた跡を解説する案内が欲しいところ。(今は知る人ぞ知る、、、になっているので) 笹井白鬚神社 創建年代は不詳。古くより笹井村の氏神として崇敬され、文明19年(1487)聖護院29代門跡道興准后が関東方面を巡錫の折、当社の別当寺観音堂に滞在し、当社を拝礼し、御神木銀杏を手植えされたと伝承。この御神木は明治11年9月13日の暴風により倒れたため、現在は若木が植えられている。明治5年、明治社格制定で、村社に列格。昭和20年5月25日戦禍にあい、文政8年(1825)に再建された拝殿及び社務所(建立年代不詳)を焼失。社務所は昭和22年ごろ再建され、拝殿は昭和41年氏子一同の浄財をもって再建。 せっかくなので、狭山市内の奉安殿流用の建造物も散策。 奉安殿(御真影奉安殿) 奉安殿とは、戦前において天皇陛下皇后陛下の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、のちに被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされているものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社の社殿などに再活用もされ、現在に残っている例も多い。 水富神社(水富国民学校奉安殿) 御社殿は、もと水富小学校奉安殿。水富小学校にあった奉安殿を、戦後に広瀬神社に移築し、日清・日露戦争以降の戦没者の御霊を旧奉安殿に招魂社・水富神社として祭祀。その後、昭和28年4月10日、旧奉安殿を現在地に移転。 水富神社の由緒一、当神社は招魂社として水富小学校の校庭の築山に忠魂碑、戦勝記念碑等が祭られておりました。  昭和28年に地元有志により当地に建立されました。二、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争で日本国を守り、郷土の安泰を願い、尊い生命を捧げられた方々、笹井地区に焼夷弾が投下され戦災に遭われた方々をお祀りする。三、例祭 4月22日  水富神社奉賛会 水富小学校 入間招魂社(入間小学校奉安殿) 昭和15年入間小学校内に建立された御真影奉安殿を昭和20年12月15日付をもって公布された神道指令にもとづき解体。建物は金剛院の土蔵に、礎石は入間野神社に保管していたが、昭和25年4月15日、これを再建し、日清戦争以降の英霊126柱を招魂して、入間招魂社としたものであり、その後38柱を合祀。祭神:日清戦争以降の戦没者164柱 狭山市サイト なお、入間小学校は、明治5年(1872年)の明治新政府の学制令発布により「入曽学校」として創立。明治22年に「入間尋常小学校」となった、歴史ある小学校であったが、創立137年の2011年に駅前再開発の影響等により閉校。閉校後、建物はすべて解体となっているため、「入間小学校」としても、唯一ゆかりの建造物となる。入間小学校の跡地は、イオンショッピングセンター「そよら入曽駅前」となった。 入間招魂社(いるましょうこんしや) 日清戦争(一八九四)より大東垂戦争(一九四一)に至るまで、この地から多数の青壮年が出征され、祖国のため勇敢に戦い殉国されました。 生命を捧げられた百六十四柱を、昭和二十五年(一九五O)四月十五日、旧入間村は戦後に解体保管されていた奉安殿を入間招魂社として復元、ここに御祀りしました。 時代は変わり行くとも平和の礎として、国の安稳と御魂の安らかなる鎮座を、永遠に祈念するものである。  令和元年十月   入間遺族会   入間奉賛会 「16紋菊の菊花紋章」。皇室の紋章が奉安殿の流用であることを物語っている。 下には「五七の桐紋」。

埼玉県狭山市。入間川の北、笹井地区に鎮座する「笹井白鬚神社」に戦災の跡が残るというので、足を運んでみました。あ…

日本の航空事始め・その9「国内現存最古級な航空草創期時代のプロペラ」(狭山・廣瀬神社)埼玉県狭山市の広瀬神社(廣瀬神社)。延喜式内社(延喜式神明帳・武蔵国式内四十四社のうちの1社)の古社としても知られる神社。 私の記録(思い出)をさかのぼっ...
24/05/2026

日本の航空事始め・その9「国内現存最古級な航空草創期時代のプロペラ」(狭山・廣瀬神社)

埼玉県狭山市の広瀬神社(廣瀬神社)。延喜式内社(延喜式神明帳・武蔵国式内四十四社のうちの1社)の古社としても知られる神社。 私の記録(思い出)をさかのぼってみると、平成14年(2002年)7月に参拝、実に24年ぶりの往訪だった。当時の私は精力的に武蔵国式内社44社を巡っていたころ、かな。まだまだ戦争関連の知見は浅く、興味の方向性も今とは異なっていた頃。同じ場所に24年ぶりに違う目的で訪問するというのも、趣深いものがある。 日本の航空事始め 「日本の航空事始め」と題して、航空機の黎明期に注目した記録も、気がつけば「その9」となっておりました。今回は、日本の航空草創期時代の貴重なプロペラ。 「その1」はこちら。 モーリス・ファルマン式 大正6年(1917)に作られ、大正11年に、廣瀬神社に奉納されたプロペラ。 このプロペラは、「モーリス・ファルマン式MF.11(ショートホーン)」世代の航空機プロペラでは?とされている。 モーリス・ファルマンは、兄のアンリ・ファルマンやディック・ファルマンとともに、ヨーロッパにおける航空先駆者。兄のアンリ・ファルマンが設計した「アンリ・ファルマン号(1910年製)」は、日本において、最初の飛行を行った航空機。ファルマン兄弟は1912年に航空機メーカーとなる「ファルマン」を設立。(のちにフランスの航空機国有合理化により統合。)ファルマン兄弟は200種類に及ぶ航空機を設計し、なかでも弟のモーリス・ファルマンの設計した初期型の飛行機が、明治晩年から大正初期にかけて数多く輸入され、航空機の国産化を促している。 日本では、「モーリス・ファルマン式・MF.11(ショートホーン)」を1914年(大正3年)に輸入。臨時軍用気球研究会にて改造を加えて「会式第七号飛行機」とした。 ※国際軍用機第一号が「会式第一号飛行機」 「会式第七号飛行機」を基にした国産機を「モ式四型偵察機」として正式採用し東京砲兵工廠と陸軍所沢飛行場で80機を生産。複座練習機として、「モ式五型練習機」を11機、エンジン換装改良型の「モ式六型偵察機」を134機生産している。 国立科学博物館の収蔵庫には国内最古の飛行機「モ式六型」があるというが、非公開。 広瀬神社に奉納されたプロペラ 日本の航空発祥の地「所沢飛行場」にほどちかい狭山市の鎮守ゆえに、安全祈願として奉納されたであろう黎明期のプロペラ。 2026年5月22~24日にかけて、廣瀬神社で特別公開「廣瀬神社でお宝さがし-資料と伝承から読み解く神社と人々の歴史-(主催:廣瀬神社 協力:狭山市教育委員会社会教育課)」があったので、足を運んでみました。 狭山市役所Facebook びっくりの奉納品  この木製プロペラは、今から104年前の大正11(1922)年1月に廣瀬神社に奉納され、長らく拝殿上段に掲げて保存されてきたものです。今回、それを間近でみてもらうことにしました。奉納された方は地元またはその近在の方だと思われますが、開場したばかりの所沢飛行場で整備や試験飛行などに携わっていた方という可能性があります。当時は、我が国航空の黎明期で、飛行機の安全度は非常に低く、死と隣り合わせの任務でした。恐らく「安全」に強く願いを込めた奉納だったのでしょう。 百年の歳月によって、積層の木材がはがれ始めるなど損傷も大きくなっていましたが、当時の木材接着剤として一般的であったニカワを用い、地元の方々が協力し合って修復を試みました。その成果もぜひごらんください。  廣瀬神社でお宝さがし 膠(ニカワ)を用いて、木材を接着して修復。修復にあたっては、膠(ニカワ)の知識が関係者では皆無だっため、人形職人の知恵も借りた、という。 航空草創期のプロペラ 大正11年(1922)に廣瀬神社に奉納されてから、100年以上ものあいだを廣瀬神社で保管をされていたが、神社での保管も限界があるため、博物館(狭山市立博物館)への寄贈も検討している、とか。 奉納されたプロペラ刻印等:170大正6年5月7日制作129 計測データ全幅:2890mm最大翼幅 270mm根本厚さ:150mmボルト穴:6個ボルト穴配置円直径 120mm中央穴径:55mm積層:7枚先端形状:やや尖る製作:大正6(1917)年5月7日泰納:大正11(1922)年1月  陸軍工兵曹長 山崎和作刻印等  170  大正6年5月7日製作

埼玉県狭山市の広瀬神社(廣瀬神社)。延喜式内社(延喜式神明帳・武蔵国式内四十四社のうちの1社)の古社としても知…

「出陣学徒壮行早慶戦(最後の早慶戦)」と戸塚球場跡地(早稲田大学)現在の早稲田大学総合学術情報センター。この地は、かつて日本野球の草創期を支えた野球場であり、昭和18年に出陣学徒壮行早慶戦「最後の早慶戦」が行われ学徒たちは戦地に赴いた、そん...
24/05/2026

「出陣学徒壮行早慶戦(最後の早慶戦)」と戸塚球場跡地(早稲田大学)

現在の早稲田大学総合学術情報センター。この地は、かつて日本野球の草創期を支えた野球場であり、昭和18年に出陣学徒壮行早慶戦「最後の早慶戦」が行われ学徒たちは戦地に赴いた、そんな戦跡としても由縁のある場所。近くに立ち寄ったので、足を運んでみました。 日本野球黎明期の戸塚球場(安部球場) 明治35年(1902年)に早稲田大学が設置した球場。日本で初めて照明を設置し、ナイターが行われた球場でもある。昭和62年(1987)に閉鎖し、球場は現存していない。現在は、早稲田大学総合学術情報センターとして、中央図書館や国際会議場などが設置されている。 早稲田大学では、明治34年(1901)に、野球部が設立され、翌年の明治35年に「戸塚球場」が開設した。初代野球部長・安部磯雄が、早稲田大学創設者・大隈重信を説得しての開設であった。当時は、本格的な野球場は少なく、またプロ野球も存在していない時代であり、大学野球が、日本の野球の中心であり、早稲田大学の戸塚球場と、慶應義塾大学の三田綱町球場が東京を代表する野球場であった。 戸塚球場では、日本初の出来事が、「4つ」ある。 明治41年(1908年)米国大リーグ選抜チームと早稲田大学が対戦。大隈重信が日本野球史上初となる「始球式」を実施。 昭和6年(1931年)早大理工学部の山本忠興博士の労により日本初のテレビジョン放送の実験が、球場と早稲田大学電気実験室との間で実施。 昭和8年(1933年)日本で初めて野球場に照明設備を設置。日本初のナイターが行われた。 昭和11年(1936年)日本初のNHKラジオのプロ野球実況中継放送を実施。 昭和16年(1941年)4月、戦時色が強まる中で、戸塚球場を戸塚道場と改称。昭和18年(1943年)6月、鉄製スタンドと照明塔を撤去。昭和18年10月16日、「出陣学徒壮行早慶戦」が開催。これが第二次世界大戦期間におけるアマチュア野球最後の試合「最後の早慶戦」であった。  ここにかつて野球場があった。第二次世界大戦前は戸塚球場と呼ばれ、戦後は安部球場と称されて早稲田の歴史を共に歩み、全早稲田人に親しまれてきたグランドである。 早稲田大学に野球部が創設されたのは明治三十四年であったが、翌三十五年七月、初代野球部部長安部磯雄先生の御努力により、この地に野球場が誕生した。まだ黎明期にあった日本の野球は、明治三十六年に始まった早慶戦によって本格化し、大正十四年の東京六大学野球の発足後は、文字どおり国民的スポーツにまで高められた、その対象十四年には三万人を収容する大スタンドも造られたのである。 大正十五年秋、明治神宮球場が完成し、東京六大学野球はその主舞台をしだいに神宮球場へ移していった。しかし、戸塚球場は学生野球の重要な舞台として、全国の注目を浴び続けた、昭和八年には全国に先駆けて夜間照明設備も完成した。 野球のグランドとしてだけではなく、戸塚球場は全学運動会や大学創立五十周年記念祝賀会などの重要な学校行事が行われた場所であり、そして昭和十八年に学徒出陣壮行会という歴史的行事が催されたのもこの場所であった。とくに同年秋に行われた、いわゆる「最後の早慶戦」を忘れることは出来ない。この球場で、これを最後と熱戦をくりひろげた選手の多くが、戦場に散って再び帰らなかったのである。 昭和二十四年、早稲田の野球の生みの親ともいうべき安部磯雄先生が世を去られ、大学は先生を偲んでこのグランドを安部球場と改称することとした。その名は、戦後早稲田に学んだ三十数万人の学生諸君の胸裡に刻まれて今日に至っている。 それから時の流れること四十年、都会の膨張と学術の発展は、この地を野球場として用い続けることを困難とする状況をつくり出した。大学では、創立百周年記念事業の主柱である総合学術情報センターの建設を、この地に予定することとなったのである。幾多の部員諸君の血と涙と汗のしみこんだ思い出深い球場を、母校の学術発展のため明け渡すことを了承して下さった野球部の先輩諸兄に対し、心から感謝せずにいられない。この総合学術情報センターを訪れる方々は、どうかこの地に大学ゆかりの球場があったということを想起すると共に、先輩の方々の万感のこもる決断に思いを致して頂きたい。 昭和六十二年、野球部の練習場は東伏見に移転したが、「安部球場」は安部磯雄先生の胸像と共に、今もここにある。 1990年(平成2年)10月  早稲田大学第十二代総長 西原春夫 早慶戦百周年記念碑早稲田大学野球部の挑戦状を以って始まった早慶戦の第三回戦が1904年10月30日当地にて挙行された。 2つの銅像がある。早稲田大学初代野球部長・安部磯雄氏と、初代監督・飛田穂洲氏の胸像。 安部磯雄胸像 野球道具をデザインしたレリーフ。 母校前野球部長安部磯雄君ガ明治三十四年同部創設以来二十有五年ノ久シキニ亘リ夙夜同部ノ発達ト崇高ナル運動精神ノ鼓吹ニ務メラレ獨リ同部ノミナラズ汎ク我國運動界今日ノ盛運ヲ見ルニ興テ大ニ力アリタル其功労ヲ感謝シ記念スルタメ之ヲ建ツ依テ茲ニ之ヲ刻ス 昭和二年九月 早稲田大学校友會内  安部前野球部長記念會 飛田穂洲胸像 飛田穂洲氏 (本名は飛田忠順)早大野球部初代監督として大学野球の選手に大きな影響を与えた。「学生野球の父」と呼ばれてこの功績を称え1960年に野球殿堂特別表彰。 飛田穂洲先生像  飛田先生名は忠順 穂洲の号をもつて広く世人に親しまれた 明治十九年水戸市郊外に生まれ 水戸中学 早稲田大学時代はもとより その一生を学生野球道ひとすじに生き抜いてきた 水戸武士の精神に徹した先生は 安部磯雄先生の訓陶によつて日本学生野球のあるべき道を悟り これを実践するとともに 操觚界に人となるや独得の健筆をふるつてひたすら若い球児の啓発指導に努めた 人となり快淡無私 最も酒を愛し銃猟を趣味とした 昭和四十年一月二十六日七十八才の質素な生涯をとじた  昭和四十一年六月   財団法人日本学生野球協会    会長武田孟 早稲田大学総合学術情報センター 早稲田大学の中央図書館と国際会議場がある。 グランドは無くなっても、通りの名は「グランド坂通り」のまま。 撮影:2026年3月 関連

現在の早稲田大学総合学術情報センター。この地は、かつて日本野球の草創期を支えた野球場であり、昭和18年に出陣学…

弾丸除地蔵尊・観音寺(横須賀追浜)横須賀の追浜地区。横須賀海軍航空隊や追浜海軍航空隊、海軍航空技術廠があった要地。その地に鎮座する古寺に、弾丸除地蔵尊が建立されていたので、足を運んでみた。 弾除け信仰 戦時中、夫や息子・兄弟の出征に際して、...
10/05/2026

弾丸除地蔵尊・観音寺(横須賀追浜)

横須賀の追浜地区。横須賀海軍航空隊や追浜海軍航空隊、海軍航空技術廠があった要地。その地に鎮座する古寺に、弾丸除地蔵尊が建立されていたので、足を運んでみた。 弾除け信仰 戦時中、夫や息子・兄弟の出征に際して、家族が無事の帰還を願って、戦場で弾丸に当たらないように、「弾除け」を観音さまや御札、千人針などに祈願の気持ちを込めたのは、自然の摂理ではあった。 観音寺(追浜東町) 三浦三十三観音第二十二番札所。「坂中山 観音寺」戦国時代の相模の朝倉氏(北条綱成公の母の実家の朝倉家)の城跡。貞享4年(1687年)の開創という。「浦郷八景」として詠まれた絶景の地に鎮座。現在は、追浜の良心寺が管理を行っている。 浦郷八景:夏島秋月、勝力(岬)帰帆、箱崎夜雨、吾妻(山)晴嵐、州口落雁、榎戸夕照、亀島暮雪、独園(寺)晩鐘 弾丸除地蔵尊 観音寺の本堂脇に、鎮座する観音さま。像高50センチほどの小さな地蔵尊であるが、戦地に赴く人々の無事の祈願が、切実に重く込められた地蔵様。 弾丸除地蔵尊 昭和12年秋 昭和12年(1937年)の秋は、7月の盧溝橋事件に続く日中戦争の拡大期にあたり、日本が戦時体制へ急速に転換した時期。9月には「支那事変」と呼称が決定され、国民精神総動員運動が始動、メディアや生活の統制が強化された、そんな時期に建立された地蔵尊。 右手に「弾丸」を抱えている地蔵尊。 観音寺の本堂 三浦廿二番坂中観音 観音寺の高台から、日産追浜工場と夏島、住友重機械工業・横須賀製造所などを垣間見る。 場所: 筒井隧道 観音寺の下にあるトンネル。近くなので、あわせて掲載。横須賀、追浜はとにかくトンネルの多い街。 明治38年(1905年)、交通が不便だった地域の住民たちが自ら団結して切り開いた、谷戸の奥と生活拠点を結ぶトンネルが筒井隧道。素掘りで竣工し、海軍航空技術廠(海軍工廠)への通勤者増加に伴い、昭和8年(1933年)に、出入口を緩やかな登りにするため路面を切り下げる改修が行われた。上下の高さがひときわある「筒井隧道」は、元々出入り口が急坂で勾配を緩やかにするために、底を掘り下げる工事を行ったトンネル。 階段の高低差で、もともとの高さ。底を掘り下げる工事の名残をみることができる。 場所: ※撮影:2026年5月 関連

横須賀の追浜地区。横須賀海軍航空隊や追浜海軍航空隊、海軍航空技術廠があった要地。その地に鎮座する古寺に、弾丸除…

「拓殖招魂社と拓殖大学」戦跡散策(八王子)拓殖大学の前身は、台湾開拓人材を育成する機関であった。そんな拓殖大学(拓大)には、いくつか近代を物語る史跡や戦跡があるというので、足を運んでみた。 拓殖大学 拓殖大学は、1900年(明治33年)6月...
10/05/2026

「拓殖招魂社と拓殖大学」戦跡散策(八王子)

拓殖大学の前身は、台湾開拓人材を育成する機関であった。そんな拓殖大学(拓大)には、いくつか近代を物語る史跡や戦跡があるというので、足を運んでみた。 拓殖大学 拓殖大学は、1900年(明治33年)6月に設立された「台湾協会学校」を起源とする。1907年に「東洋協会専門学校」、1915年(大正4年)に「東洋協会植民専門学校」、1918年に「拓殖大学」と改称。1922年に「東洋協会大学」とするも、1926年に再び「拓殖大学」と呼称。戦前は、植民地経営のための人材を多く輩出した。また、太平洋戦争では、1263人の学徒が出陣をしている。空襲で、文京キャンパス(茗荷谷)の恩賜記念講堂などを焼失。終戦後、1946年(昭和21年)に「紅陵大学」と改称するが、連合国軍占領統治終了後に旧称の「拓殖大学」に戻し、現在に至る。初代総長は、桂太郎。後藤新平、宇垣一成、下村宏、そして中曾根康弘などが総長を務めている。 恩賜記念館 1912年に明治天皇から下賜された資金をもとに、1914年に文京キャンパスに建設された「恩賜記念講堂」を、創立100周年記念事業として2000年に八王子キャンパスへ復元・移築した建物。歴史資料室もあるというが、訪れた際は、残念ながら閉館していたので、もしかしたら、再訪かも。 恩賜記念館 明治45年4月23日 明治天皇から御下賜された恩賜金により、大正3年3月に建設された恩賜記念講堂を、創立百周年を記念して、平成12年に恩賜記念館として復元したものです。 内部には、記念講堂をはじめ、本学の歴史的な資料を展示する歴史資料室、マルチメディア閲覧室及び会議室があります。 なお、正面の桂太郎公の銅像及び館銘板は、当時の恩賜記念講堂のものです。 恩賜記念館 恩賜記念館の扁額。恩賜記念講堂当時のもの。昭和40年新校舎建築のため取り壊された際、半分に割れて廃棄されたものを回収したもの、という。 桂太郎銅像 桂太郎内閣総理大臣(第11代、13代、15代:第1次桂内閣、第2次桂内閣、第3次桂内閣)、台湾総督(第2代)、陸軍大臣(第5代)、内務大臣(第18代)、文部大臣(第23代)、大蔵大臣(第13代)、貴族院議員、内大臣、外務大臣(第17代)などを歴任。日露戦争時の内閣総理大臣。西園寺公望(第12代、14代)と交互に総理を務めた期間は「桂園時代」と呼ばれた。軍人としての階級は陸軍大将。栄典は、従一位大勲位功三級公爵。通算首相在職日数は、2,886日(2023年4月現在、安倍晋三に次ぐ歴代2位)。第3次内閣は第一次護憲運動を受けて退陣し、同年に病没した。 創立者 桂 太郎 先生銅像 拓殖大学の前身台湾協会学校の創立者で、初代校長をつとめた公爵桂太郎先生(一八四七~一九一三年)の銅像である。 桂太郎公は弘化四年山口県萩に生まれる。 長州藩士として幕末緒戦に参加、維新後、ベルリンに留学、プロシアの兵制を学ぶ。山県有朋、大山巌を輔けて軍制の改革を図り、参謀本部の独立、鎮台の師団改編等を行い、明治陸軍建設に大きな役割を果たし、陸軍大将に累進した。 第二代台湾総督、陸相の後、明治三十四年初めて組閣の大命を拝し、第一次桂内閣首相として翌年日英同盟を締結、さらに同三十七年、日露戦争勃発するや挙国一致これに対処してよく戦勝に導き、しかも戦争の終結を深謀、外相小村寿太郎を全権として講和条約を結ばせた功績は史上に著しい。 明治三十三年(一九〇〇年)、台湾協会会頭として台湾協会学校を創立して初代校長に就任、以後十二年間にわたり本学の基礎をつくった。また医学会でも初代癌研究所会長に就任し、医療の発展に貢献した。 大正二年 (一九一三年) 十月十日急逝。享年六十七歳。 この銅像は大正三年六月に完成したもので、設計·鋳造は武石弘三郎氏の作である。  平成十二年四月 桂太郎銅像は、文京キャンパスと、八王子国際キャンパス、そして山口県萩市の桂太郎旧宅にある。 恩賜金の下賜を伝えた明治天皇の御沙汰書を、桂太郎先生が、教職員・学生に奉読している姿。 拓殖招魂社 拓殖大学には、学内神社として招魂社がある。戦前期に茗荷谷学舎において創建。第二次世界大戦後に撤去された際、神社の扁額が学生によって持ち出される。1976年に総長室に扁額を奉安。1980年に八王子国際キャンパスに社殿を創建。戦没した御英霊を祀っていることから、「拓殖大学の護国神社」の性質を持っている。 拓殖招魂社拓殖招魂社由来の記拓殖招魂社は、昭和8(1933)年4月、学生有志の発願により茗荷谷校地(現在の文京キャンパス)に建立された。これより先、昭和6(1931)年4月に碑(「烈士脇光三碑」)が建てられた脇光三他5名の日露戦争戦没者をはじめとして、満洲開発の途上で、支那事変の従軍通訳として、また先の大戦等において国難に殉じた拓殖大学出身者の英霊を祭っている。終戦後、GHQのいわゆる「神道指令」によりやむなく焼却されたが、昭和51(1976)年10月、一学友によって九州に奉遷されていた神額が返還され、昭和55(1980)年10月23日、「拓殖大学の精神的原点」を象徴するものとして、学校、学友、学生三者の協力により現在の場所に再建された。令和5(2023)年に新たに一柱を加え、440柱を合祀。毎年春季秋季の2回、例祭を執り行っている。 拓殖招魂社由緒拓殖招魂社は、拓殖大学建学理念の具現化であり、精神的原点の象徴である。ここに祀るは究極的には、その理念であり、その理念に身を以て殉どれた尊い御霊である。即ちここに 、建学の理念を体し日本国家民族の護持に挺身し、亜細亜恢復の大義に殉じ、以て世界の調和進展の礎石となられた脇光三先輩を初めとする本学関係者の尊き御霊を紀り奉つる。 個を超えて日本、亜細亜、世界という全体に生きられたその御霊に合掌し、その無言の訓えに粛然として頭を重れ、我等またそのあとに続かんことを誓うものである拓殖大学...

拓殖大学の前身は、台湾開拓人材を育成する機関であった。そんな拓殖大学(拓大)には、いくつか近代を物語る史跡や戦…

新宿の戦災樹木「稲荷鬼王神社のスダジイ」「鎧神社のイチョウ」 新宿のふたつの神社に戦災樹木があるというので、足を運んでみました。 稲荷鬼王神社のスダジイ(新宿区歌舞伎町) 稲荷鬼王神社の境内にある、空襲の熱で焦げた痕跡が残る樹木。歌舞伎町の...
10/05/2026

新宿の戦災樹木「稲荷鬼王神社のスダジイ」「鎧神社のイチョウ」 

新宿のふたつの神社に戦災樹木があるというので、足を運んでみました。 稲荷鬼王神社のスダジイ(新宿区歌舞伎町) 稲荷鬼王神社の境内にある、空襲の熱で焦げた痕跡が残る樹木。歌舞伎町の賑わいとは真逆な静謐な神域。新宿区の保存樹木に選定。 空襲の焼焦跡を感じさせる木肌。 門柱は「御大礼記念」、大正4年11月の建立。社号標は昭和2年9月の建立。 天水琴が清らかな音を奏でる。 ※2026年1月 鎧神社のイチョウ(新宿区北新宿) 1945年の山の手空襲による火災で、同神社は社殿や社務所など木造部分を全て焼失。幹に大きな空洞が残るイチョウ(銀杏・公孫樹)。ウレタン樹脂で空洞が埋められている。 ウレタンの劣化が、そのまま空襲焼焦跡を思わせるような気配を漂わせている。 昭和11年10月建立の灯籠 昭和11年9月建立の狛犬 ※撮影:2026年4月 幸國寺の大銀杏(新宿区原町) 別記事にて。 新宿区平和マップ 関連

新宿のふたつの神社に戦災樹木があるというので、足を運んでみました。 稲荷鬼王神社のスダジイ(新宿区歌舞伎町) …

「桜咲く宮・靖國神社」~靖國櫻(令和8年)今年も靖國神社の桜花を愛でる。毎年恒例の花見。 御英霊の皆様と、今年も花見と洒落込もう。「花の都」「桜咲く宮」を楽しもう。 境内に献木された桜たち。一木一木に込められた戦友・ご遺族の皆様の想いが、桜...
09/05/2026

「桜咲く宮・靖國神社」~靖國櫻(令和8年)

今年も靖國神社の桜花を愛でる。毎年恒例の花見。 御英霊の皆様と、今年も花見と洒落込もう。「花の都」「桜咲く宮」を楽しもう。 境内に献木された桜たち。一木一木に込められた戦友・ご遺族の皆様の想いが、桜の花を咲かせる。靖國の桜花「靖國櫻」には御英霊の御心が宿っている。御霊、やすらかに。 ありがとうございます。 以下、写真にて。 令和8年3月30日の靖國神社 また、1年後に! ※撮影:2026年3月30日。

今年も靖國神社の桜花を愛でる。毎年恒例の花見。御英霊の皆様と、今年も花見と洒落込もう。「花の都」「桜咲く宮」を…

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Chuo-ku, Tokyo

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