東京都公文書館

東京都公文書館 東京都公文書館の公式Facebookページです。 所蔵資料や、館の取組みについて紹介していきます!

【日比谷公園の芝生】 東京都公文書館のお隣は都立武蔵国分寺公園。陽気のいい日には大きな芝生広場でゴロンと横になってみたい気にもなりますが、こうも暑くてはそれどころではありません、残念。そんなことを思いつつ、今回は「日比谷公園芝生地開放ノ件」...
03/09/2026

【日比谷公園の芝生】
 東京都公文書館のお隣は都立武蔵国分寺公園。陽気のいい日には大きな芝生広場でゴロンと横になってみたい気にもなりますが、こうも暑くてはそれどころではありません、残念。そんなことを思いつつ、今回は「日比谷公園芝生地開放ノ件」という東京市の文書を紹介します。ここでいう「芝生地」は、祝田橋交差点に近い現在の「草地広場」あたりを指しています。
 明治38年(1905)4月24日、日比谷公園監督・白石信栄が東京市に「芝生地一面是迄芝培養中公衆ノ出入ヲ禁シ置候処、最早芝蔓生候ニ付、該所周囲八ケ所ニ別紙掲示札ヲ建テ五月一日ヨリ公衆ヲシテ出入セシメ度候」と報告しています(ちなみに「監督」とは日比谷公園の管理を統括した東京市の職員です)。日比谷公園の開園は明治36年6月1日ですが、それからしばらくの間は芝の生育を待ちながら、芝生地を立ち入り禁止にしていたようです。その甲斐あって芝生がよく広がり育ったのでしょう。白石は、芝生地の周囲8か所に「下駄、足駄ノ侭此内ヘ入ルベカラズ」と書いた掲示札を立て、5月1日から開放したいと伝えています。足駄(あしだ)は下駄よりもさらに歯の高い履物で、これらが芝を剥がさないよう禁止されました。これが東京市で認められ、芝生地が開放されることになりました。開園から2年近くの期間を経て、ようやく日比谷公園の芝生地は立ち入り禁止を解かれて憩いの場になったのです。
 ところが、いよいよ日比谷公園も仕上がってきたなと思いきや、5月20日に白石から「芝生地全部開放以来僅ニ十九日間ノ日数ニ過ザルニ被害甚敷、従テ全部同時ニ修繕ヲ要シ」という報告が東京市に届きます。なんと、芝生地の開放からわずか19日間で全体的な修繕を必要とするほど芝生が荒れてしまったとのこと…。かといって、再び立ち入り禁止にしては来園者が休憩場所を失ってしまうので、しばらく芝生地を南北に二分割して交互に使用と修繕をするということになりました。開園当初から東京名所のひとつとして知られてきましたが、実はこうした芝生地づくりの試行錯誤が続いていたのです。
 そういえば、日比谷公園の芝生といえば帝国ホテル側の一角で「芝庭広場」が2024年9月にオープンしました。ここでも毎年6月は全面的な芝生の養生期間とし、それ以外の時期も広場を3分割して養生区画のローテーションをしています。公園がいつまでも開かれた場所であり続けるために、今も昔も様々な工夫と取り組みが続けられています。

所蔵資料の件名と詳細情報(検索情報システムのURL)
・「日比谷公園芝生地開放の件」明治38年(1905)4月 請求番号:602.C4.16
https://www.archives.metro.tokyo.lg.jp/detail?cls=collection_04&pkey=523996
・「日比谷公園芝生地一半芝培養の件」明治38年(1905)5月 請求番号:602.C4.16
https://www.archives.metro.tokyo.lg.jp/detail?cls=collection_04&pkey=523997
・「日比谷公園」昭和6年(1931) 請求番号:市刊D345
https://www.archives.metro.tokyo.lg.jp/detail?cls=collection_07&pkey=000524834

#企画展  #日比谷公園  #芝生  #東京市  #禁止  #開園

【企画展「都市と緑の近現代史」Ⅱ東京を緑で囲むより 紀元2600年事業における大緑地整備】 現在開催している企画展示「都市と緑の近現代史―東京と公園のあゆみ」(令和8年(2026)7月17日(金)~9月15日(火))も残り2週間ほどとなりま...
01/09/2026

【企画展「都市と緑の近現代史」Ⅱ東京を緑で囲むより 紀元2600年事業における大緑地整備】

 現在開催している企画展示「都市と緑の近現代史―東京と公園のあゆみ」(令和8年(2026)7月17日(金)~9月15日(火))も残り2週間ほどとなりました。猛暑の中にも関わらず、多くの方にお越しいただいております。改めて御礼申し上げます。
 今回は、「第Ⅱ章 東京を緑で囲む~東京緑地計画と防空」より、「紀元2600年事業における大緑地整備」についてご紹介します。
 昭和15年(1940)は神武天皇が即位されたといわれる年を紀元元年とする「紀元二千六百年」にあたり、東京府では「記念二千六百年記念事業」として6か所の緑地造成を推進しました。戦争が本格化する中で、空襲の被害を抑えるために空地を確保することが必要になっていました。さらに戦争に動員される国民の健康維持も国策上重要な課題だったため、大きな緑地をレクリエーションの場としつつ、空襲の際には被害を抑えるためのオープンスペースとして活用しようとしたのです。
 “大緑地計画”と称したこの計画は、東京府が昭和14年4月1日に設置した東京府紀元二千六百年記念事業審議会で審議され、翌年2月8日の臨時府会にて可決されました。その後、3月9日に都市計画東京地方委員会に付議して、東京都市計画並びに同事業に決定されました。
 大緑地計画は、東京駅を中心とした20㎞の円圏内外(環状緑地計画の範囲)で、地積20万坪から50万坪の緑地に設置し、昭和14年度から17年度の4か年で2,150万円の予算を投じる大規模なものでした。計画地は、交通幹線(都市計画道路放射線並びに鉄道等)に沿う地域で、砧(現世田谷区)、神代(現調布市)、小金井(現小金井市・武蔵野市・西東京市・小平市)、舎人(現足立区)、水元(現葛飾区、現埼玉県三郷市)、篠崎(現江戸川区)に決定しました。
 帝都防衛とともに、平時においては市民の保健、休養に利用して体位の向上を図ることを目的としたのです。

【今回の史料】
画像1 東京都市計畫並仝事業 篠崎緑地計畫圖 縮尺三千分ノ一(請求番号:2026.地図.0005)
https://www.archives.metro.tokyo.lg.jp/detail?cls=collection_13&pkey=000603329

画像2 東京大緑地写真集「公園緑地 第4巻第4号(昭和15年4月)」(請求番号:UZ-B2-022)
https://www.archives.metro.tokyo.lg.jp/detail?cls=collection_11&pkey=000348081

#企画展  #緑地  #公園  #紀元2600年事業

【火消殉職者の石碑】 浅草寺といえば、雷門、仲見世、本堂(観音堂)などが有名ですが、境内をくまなく散策してみると沢山の石碑があることがわかります。そこで今回はその中の一つ、本堂の裏側に静かに佇む「消防殉職者表彰碑」についてご紹介します。 こ...
27/08/2026

【火消殉職者の石碑】
 浅草寺といえば、雷門、仲見世、本堂(観音堂)などが有名ですが、境内をくまなく散策してみると沢山の石碑があることがわかります。そこで今回はその中の一つ、本堂の裏側に静かに佇む「消防殉職者表彰碑」についてご紹介します。
 この石碑は大正元年(1912)12月3日、消防関係者を中心に殉職者の追悼とその功績を伝えるために建立されたものです。石碑の正面には正二位伯爵樺山資紀(かばやますけのり)による揮毫で「消防殉職者表彰碑」、背面には消防活動によって殉職された方々120名の人名と所属が刻されています。また、昭和14年(1939)の殉職者名も含まれていることから、石碑建立後にも加筆されていたことが分かります。しかしここで驚くべき点は、江戸時代に殉職した町火消たちの名前も刻されている点です。
 当館には、大正元年9月12日に消防本部長室田景辰から東京市宛に提出されたこの石碑を建立するための願書が所蔵されています。そこには石碑を建てる理由として、「警視庁創設以降ノ殉職者ハ之レヲ弥生社ニ合祀シ、一般殉職者ト共ニ弔祭セラルヽノ栄典ニ浴セリトイヘトモ、警視庁創設以前ノ殉職者ニ対シテ何等英魂ヲ慰スルノ途ナク…(中略)…享保以降ノ殉職者ニ対シ、追悼ノ碑ヲ建設シ、其芳名ヲ不朽ニ伝ヘントス」(画像矢印部分)と記されています。つまり、警視庁が創設された明治7年(1874)以降の殉職者については弥生社(現・千代田区北の丸公園内弥生慰霊堂)に祀られていますが、それ以前の享保期(1716~1736)以来の江戸時代の殉職者に対しては、追悼の意を表すことができておらず、その芳名を未来へ残すためにも、石碑を建立したいというものでした。この願いは東京府知事による承認を経て、大正元年10月19日に東京市によって建碑の許可が決定しています。
 同年12月8日の除幕式には、石碑の建設委員であった警視総監安楽兼道・消防本部長室田景辰をはじめ、東京府会議長杉原栄三郎、府市会・警察・消防関係者、殉職者の遺族を含めて千人以上の人々が集まったことが伝えられています(『警察協會雑誌』)。
 浅草寺境内の「消防殉職者表彰碑」には、殉職した町火消・消防職員らへの追悼と顕彰の思いが込められているのでした。

〔参考〕警察協會『警察協會雑誌』第151号(1912年12月発行)、鹿島靖幸編・東京消防庁監修『江戸消防 創立三十周年記念』(江戸消防記念会、1984年)

#消防  #火消  #石碑  #享保  #江戸  #東京  #浅草寺

【緑をきらう住民運動?―令和8年度夏企画展示「都市と緑の近現代史―東京と公園のあゆみ―」開催中!―】 一枚の写真をご覧ください。たくさんの人々がハチマキを締めて旗を持ち、何かに抗議している姿が写っており、会場の熱気がよく伝わってきます。目を...
20/08/2026

【緑をきらう住民運動?―令和8年度夏企画展示「都市と緑の近現代史―東京と公園のあゆみ―」開催中!―】
 一枚の写真をご覧ください。たくさんの人々がハチマキを締めて旗を持ち、何かに抗議している姿が写っており、会場の熱気がよく伝わってきます。目を凝らして見てみると、旗には「北多摩地方緑地帯設定絶対反対」という文言があります。ちなみに撮影された場所は日比谷公園の音楽堂です。この写真に写っている北多摩地域の人々は、緑あふれる公園で緑地に反対する住民運動を起こしていたことになります。これは一体どういうことでしょう?
 この写真が撮られたのは昭和31年(1956)12月、戦災復興がひと段落し、高度経済成長が本格化してくる時代です。現在開催中の令和8年度夏企画展示「都市と緑の近現代史―東京と公園のあゆみ―」では、こうした時代の転換点の中で、公園や緑がどのように認識されていたのかをご紹介しています。ぜひご来館いただけますと幸いです。

【画像の出典】
画像:「都政アルバムNo.4」(請求番号:政策A065-2)
https://www.archives.metro.tokyo.lg.jp/detail?cls=collection_07&pkey=000578655
#東京  #緑  #公園  #多摩  #高度経済成長  #住民運動

【100年前の東京市~柳北公園の開園と大名庭園~】 今回は100年前の東京で起きた出来事とそれに関連する当館の所蔵資料を紹介します。 大正15年(1926)8月17日、柳北公園(台東区浅草橋)が開園しました。同園は、大正12年の関東大震災後...
18/08/2026

【100年前の東京市~柳北公園の開園と大名庭園~】

 今回は100年前の東京で起きた出来事とそれに関連する当館の所蔵資料を紹介します。
 大正15年(1926)8月17日、柳北公園(台東区浅草橋)が開園しました。同園は、大正12年の関東大震災後の帝都復興計画により設置された復興小公園のひとつです。江戸時代、この一帯は長崎県北部を治めた平戸藩松浦家の上屋敷が置かれていた場所でした。公園の北側には、当時名園として知られた蓬莱園(ほうらいえん)という松浦家の庭園が隣接していました。東京市が発行した「東京市公園案内」では、公園北部から「樹間を透して隣接の蓬莱園を望見し得るので面積の割に余程広闊な感じがする」と紹介されており、庭園と一体となった開放的な雰囲気を感じられる公園であったことがうかがわれます。
 当館では、この蓬莱園を描いた絵図を所蔵しています。この絵図には、造園家の小澤圭次郎(おざわけいじろう)が記した識語が付されており、庭園は寛永年間(1624~1644)に創設され、10代藩主松浦熈(まつらひろむ)の治世である天保5年(1834)に蓬莱園と名付けられ、その後火災や改修を経たものの明治期に至ってもおおむね旧観が維持されていることなどが記されています。また、小澤自身はこの絵図を明治16年(1883)に入手し、同20年に初めて自身の眼で園内を見る機会を得て、以来数度にわたり園内の様子を観覧していたことも分かります。
 蓬莱園の最大の特徴は、庭園の大部分を占める池泉を活用して海に見立てた景観を生み出していることです。庭園の北側に「海潮ノ入口」と記された部分があることからも分かるように、この庭園は実際に海水を引き入れて造られた「潮入の庭」でした。園内には、船着場である「あやをる岸」や、小石が敷き詰められた「数取濱」、立石が配置された「ゆかりの磯」などが設けられており、まるで国許の平戸さながらの情景が表現されています。江戸に滞在中の藩主は、この庭園から遠く離れた平戸の地へと思いをはせたのでしょうか。
 近代以降、華族となった松浦家は蓬莱園を社交場としても活用していたようですが、関東大震災の影響により荒廃し、昭和12年(1937)に埋め立てられました。現在その跡地は都立忍岡高等学校となっています。開園100周年となる公園ですが、時代の移り変わりとともに公園の情景も大きく変化しました。

#公園  #柳北公園  #庭園  #大名庭園  #蓬莱園  #平戸藩  #松浦家  #小澤圭次郎

【資料情報】
・『東京市公報』大正15年08月17日
資料詳細[公報_件名]
・「東京市公園案内(パンフレットのスクラップブック)」(請求番号:市刊D198)
資料詳細[庁内刊行物]
・「蓬莱園図」(請求番号:ZB-148)
資料詳細[江戸明治期史料]
【参考文献】
永松義博・杉本和宏・吉田健「平戸藩江戸屋敷「蓬萊園」に織り込まれた景色」(『南九州大学研究報告 自然科学編』47号、2017年)

【東京都制の改正―特別区誕生前夜―】 東京都は日本で唯一「都」を称する自治体です。これは戦時中に制定された「東京都制」という法律に基づいた名称が地方自治法に引き継がれたものです。「都」の特徴として特別区の存在が思い浮かぶ方も多いかと思います...
14/08/2026

【東京都制の改正―特別区誕生前夜―】
 東京都は日本で唯一「都」を称する自治体です。これは戦時中に制定された「東京都制」という法律に基づいた名称が地方自治法に引き継がれたものです。「都」の特徴として特別区の存在が思い浮かぶ方も多いかと思いますが、ちょうど80年前頃、区の在り方を大きく変える都制の改正が行われようとしていました。そこで今回は、東京の地方行政の沿革をたどりながら、都制と区の関係性に迫っていきます。
 明治22年(1890)の市制施行により誕生した東京市では、当初市制特例が適用され、官選の府知事が市長を兼任するという有名無実化した状態で市制はスタートしました。東京市内には従来の15区が存続することとなり、区長は市の行政執行の補助機関として市参事会によって選任されました。
 東京市市会を中心に撤廃運動が続けられ、約10年後の明治31年(1898)に市制特例が撤廃、完全市制に移行し自治を獲得しました。東京市長は市会による推薦をうけたものから選ばれることとなり、区長は市長が任命する市の吏員となります。区には財産および営造物に関する事務処理についてのみ独立の法人格が認められました。
 その後、戦時下の状況の中で府市並立の弊害を解消するため、昭和18年(1943)に「東京都制」が施行され、東京都が誕生します。都長官(今の都知事)には国務大臣級の親任官が置かれ、区は都の内部団体となり、官選の区長と公選の区会が設置されるなど、統制が強化されました。東京都制は東京都の原点となる重要な法律である一方、東京から自治権を大きく奪った存在でもあったのです。
 戦後、GHQの地方分権の方針に沿って、都においても区の自治権の拡大が指向され、昭和21年(1946)に公布された改正都制によって区長は公選制となり、課税権・起債権・条例制定権が認められるなど、市に準じた権限が認められるに至りました。都制改正にあたっては、それまで市や都の内部団体であった区が自治体としての性格を持ち合わせることになり、在り方が大きく変わるものでした。そこで、都庁内では職員による「改正都制準備協議会」や「臨時都制対策部」といった部会が設置され、施行にあたって正確に制度を運用できるような準備が入念に行われていたことが分かります。

【画像の出典】
1枚目:「改正都制施行準備打合会設置の件」『昭和二十一年 庶務 令規 第一種 東京都 冊の1』(請求番号:325.G3.01)
https://www.archives.metro.tokyo.lg.jp/detail?cls=collection_06&pkey=1660280
2枚目:国立公文書館蔵「東京都制・御署名原本・昭和十八年・法律第八九号」(請求番号:御26836100)
国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/file/142349より

【参考文献】
宇賀克也『地方自治法概説 第9版』有斐閣、2021年
東京都『東京都政五十年史 通史』東京都、1994年
特別区協議会『東京23区のなりたち 東京大都市地域の物語』特別区協議会、2017年

#東京都 #東京都制 #特別区 #東京府 #東京市

【西洋式消防ポンプの導入】 火の用心~。さて、今回は消防器具の話題になります。江戸時代に発明された龍吐水は、明治時代となっても重要な消防用具でしたが、明治初期に西洋から各種の消防用具が輸入されてからは西洋のすぐれた消防用具が使用され始めまし...
06/08/2026

【西洋式消防ポンプの導入】
 火の用心~。さて、今回は消防器具の話題になります。江戸時代に発明された龍吐水は、明治時代となっても重要な消防用具でしたが、明治初期に西洋から各種の消防用具が輸入されてからは西洋のすぐれた消防用具が使用され始めました。
 明治2年(1869)9月、東京府は常務局に消防掛を設置し、閏10月には消防改革として掛役人の諸印を定めました(画像1)。この諸印は、2020年7月7日付のSNS記事【『府治類纂』 ~デジタルアーカイブ搭載資料】でも紹介しましたが、今回は鮮やかな着色が見られます。赤色「龍吐水目印」、緑色「カグラサン(神楽桟)目印」とともに青色「ポンプ目印」が明示されており、消防掛に「ポンプ(掛)」が組織されたことがわかります。
 ところで、このポンプはどこの国から輸入したのでしょうか。先ほどの諸印が収録された同じ簿冊に、東京府が明治4年4月7日に「孛漏生国」すなわちプロイセン王国へ注文していた文書が綴られています。それによると、あまりに大きかったため船から水揚げすることもままならず、収納しておく場所にも難儀していたことが読み取れます。
 一方、初めて消火器械として「ポンプ」が導入された事例は、明治4年2月8日に発生した火災とされています。『武江年表』には、「同八日戌下刻浅草本願寺後田島町火事、田原町迄焼る」とあり、浅草田島町(現台東区西浅草二丁目)の町家から出火し、「消防器械ポンプ始て用ひ便利を知る」と評されています。
 この火災については、当館所蔵の四十番組中年寄高松喜兵衛らが報告した「出火場御届」と添付された図面で状況が詳細に把握できます(画像2)。それによると、田島町紙屑買の梅田茂三郎居宅二階の桃燈が火元で、図面の右上から左下かけて赤い線の範囲まで火の手が延びていったことがうかがえます。お気づきかと思いますが、この図面には所々付箋が貼り付けられており、どこの現場をどの番組が担当したのかが示されています。はたして、巨大な「ポンプ」は実際どのように現場で使用されたのか気になるところです。

#消防  #防災  #火事  #ポンプ  #浅草

【参考文献】
・『東京の消防百年の歩み』(東京の消防百年記念行事推進委員会、昭和55年(1980)6月)
請求番号:消防A4

【資料情報】
・公開件名:町布告、消防諸印
簿冊名:消防事務書類 〈消防掛〉
請求番号:605.B6.08
https://www.archives.metro.tokyo.lg.jp/detail?cls=collection_04&pkey=590598
・公開件名:四十番組中年寄高松喜兵衛・添年寄水谷半右衛門より浅草田島町17番借店紙屑買梅田茂三郎宅にて出火類焼鎮火の旨届 類焼地絵図有り
簿冊名:町方諸伺留・1
請求番号:604.A2.04
https://www.archives.metro.tokyo.lg.jp/detail?cls=collection_04&pkey=546173

【参考情報】
・2020年7月7日付のSNS記事【『府治類纂』 ~デジタルアーカイブ搭載資料】Facebook

【続・作ってみました!戦前の献立5 夏向献立-トマトのスチウドライス〔シチュードライス〕-】  戦前、東京市が広報誌『東京市公報』で市民に紹介したレシピを作る第5回目は、トマトを使った夏向きの夕食のメニューです。 ということで、作ってみまし...
31/07/2026

【続・作ってみました!戦前の献立5 夏向献立-トマトのスチウドライス〔シチュードライス〕-】 
 戦前、東京市が広報誌『東京市公報』で市民に紹介したレシピを作る第5回目は、トマトを使った夏向きの夕食のメニューです。
 ということで、作ってみました。
 昭和8年(1933)8月1日『東京市公報』No.2293のレシピ「栄養料理献立(九)」より、「夏向献立 夕-スチウドライス-」です。
バターのコクとまろやかさが加わったトマトベースのシチューをかけたご飯は、一皿で野菜もたっぷり取れます。コショウの効いたシチューの酸味であっさり食べられ、夏にぴったりの一品でした。
 このシリーズを振りかえると、戦争が本格化するまでは、食材・調味料ともにとても豊富な現在に劣らない料理も多かったと感じます。しかし、こうした献立が、戦前・戦時中において、どれほどの東京の家庭で参考にできたのか、という疑問が残ります。
 公報は週3回発行されましたが、実は有償で、昭和7年からは1部3銭、購読はひと月30銭でした。1930年代の月刊誌の値段は、改造、キング、主婦の友などが50銭、文芸春秋が40銭でした。昭和初年頃、給料生活者、労働者層とも新聞はほぼ普及していましたが、雑誌をあわせて定期購読できたのは給料生活者で、労働者層は新聞のほかに購読する余裕はまだなかったとされます。娯楽雑誌より優先して公報を購入する人はいたのでしょうか。
 昭和2~3年の記録によると、公報の購読申込は、個人、各種企業、商店、学校、官公庁、町会などの各種団体名が並ぶので、職場や町会などで回覧されていたことが推測されます。続編で紹介した昭和8年の公報の発行部数は111万3,000冊、発行回数は205回で、平均発行数は約5,430冊/回でした。大雑把な参考値になりますが、これを東京の世帯数(117万6,000)で換算すると、0.46%で1,000世帯中5世帯が読者だった計算になります。
 したがって、回覧による読者を合わせても、公報の読者層はいわゆるホワイトカラー層が中心で、読者層・数とも非常に限られていたといえます。安価で栄養があり美味しいをうたった公報の献立も、こうした層の家庭向けではなかったか、と考えられるのです。
 さて、続編を含めて10回にわたりお送りしましたこの「作ってみました!」シリーズも今回で最終回です。長らくおつきあいいただきありがとうございました!
(文末にレシピを引用しましたのでご参照ください)

『東京市公報』No.2293 昭和8年8月1日 公報件名番号K0024527
https://www.archives.metro.tokyo.lg.jp/detail?cls=collection_09&pkey=K0024527

〈参考〉
・有山輝雄「一九二、三〇年代のメディア普及状態‐給料生活者、労働者を中心に‐」日本出版学会編『出版研究』15 1984年
・『東京市政概要 昭和10年』市刊K132
https://www.archives.metro.tokyo.lg.jp/detail?cls=collection_07&pkey=000305641
・『東京市事務報告書財産表 昭和7年』市刊H94
https://www.archives.metro.tokyo.lg.jp/detail?cls=collection_07&pkey=000305960

#レシピ  #シチュー  #戦争  #栄養  #昭和

スチウドライス  〔 〕は補記
 牛肉 七〇瓦〔g以下同〕、バター 一〇瓦、メリケン粉 五瓦、ポテト 五〇瓦、人参 二〇瓦、玉葱 五〇瓦、トマト汁 三〇瓦、グリーンピース 五瓦、塩・胡椒 少々

 牛肉は五分角の賽の目に切り、ラードで炒め、水を加へて後之の中へ、馬鈴薯、人参の賽の目切りを加へ最後に玉葱を入れる。別鍋にバターを注ぎメリケン粉を入れていため、前の煮汁を加へて溶いてゆく。これにトマト汁を加へて塩胡椒で調味し、牛肉野菜を入れてまぜ皿に御飯を型に詰めてうつし、片方に出来上がつたスチウーをかけて供す。

【企画展「都市と緑の近現代史」第Ⅱ章 東京を緑で囲む】  当館では令和8年(2026)7月17日(金)~9月15日(火)まで、企画展示「都市と緑の近現代史―東京と公園のあゆみ」を開催しています。今回は、「第Ⅱ章 東京を緑で囲む~東京緑地計画...
28/07/2026

【企画展「都市と緑の近現代史」第Ⅱ章 東京を緑で囲む】 
 当館では令和8年(2026)7月17日(金)~9月15日(火)まで、企画展示「都市と緑の近現代史―東京と公園のあゆみ」を開催しています。今回は、「第Ⅱ章 東京を緑で囲む~東京緑地計画と防空」を紹介します(画像1)。
 関東大震災の復興都市計画事業が紆余曲折を経ながら進み、東京市郊外へ住宅地の開発が加速しました。さらに、郊外への工場集積が顕著となり、ますます東京は過大都市化していきました。
 東京市域を超えて工場や住宅が無秩序に広がっていくことを防ぐため、市域を拡張し、さらに市街地を緑で囲み、開発を抑制しようとする「東京緑地計画」が検討されました。歯止めなく増加する住宅や工場による都市化の拡大を防ごうと試みたのです。
 また、戦争への備えのなかで、防空体制の強化のため、「防空空地帯」の指定が行われました。平時には、空地は住民の体力向上のための公園・運動場、農業生産のための農地として用いられ、空襲時には防火帯として機能しました。東京緑地計画の理念を継承し、市街地の拡大を抑える役割も期待されています。(当初より一部文章を修正しました。)
 第Ⅱ章では、当館が所蔵する東京緑地計画に関わる資料を中心に展示をしております。(画像2)。ご来館をお待ちしております。

【今回の史料】
画像1 第Ⅱ章の展示の様子
画像2 東京緑地計画(景園地・行楽道路)計画図(請求番号:U19.85-とち-397)

#東京市  #展示  #緑地計画  #戦争  #防空  #公園

【「日本の公園の父」本多静六も登場! 夏企画展示開催中です】 今月17日(金)から、夏の企画展示「都市と緑の近現代史 ―東京と公園のあゆみ」が始まりました!日々の散歩コースや遊び場になったり、ふとした時に一息ついてみたり、そんな公園の歴史に...
24/07/2026

【「日本の公園の父」本多静六も登場! 夏企画展示開催中です】

 今月17日(金)から、夏の企画展示「都市と緑の近現代史 ―東京と公園のあゆみ」が始まりました!日々の散歩コースや遊び場になったり、ふとした時に一息ついてみたり、そんな公園の歴史について多彩な資料を紹介しています。
 みなさんは「日本の公園の父」と呼ばれる本多静六(ほんだ せいろく:1866~1952)のことをご存じでしょうか?東京でいえば、明治36年(1903)に開園した日比谷公園の設計者としても有名です。また、明治41年に東京市でより良い公園づくりのため学識経験者を中心に発足した「公園改良委員会」でも活躍しました。そのなかで本多は、伝統的な日本庭園の様式を尊重しながら、たえず発展を続ける近代都市東京の公園に西洋の公園設計を積極的に導入しました。
 今回の展示は、そうした公園改良委員会の報告書などをふまえ、東京の公園づくりがどのように始まったのかということにも触れています。画像は、同委員会が明治41年12月に東京市長・尾崎行雄に提出した第1回報告書の冒頭部分です。6月の発足以来、すでに23回もの調査をふまえて作成されたもので、報告書の全体は『東京市公園改良設計調査報告書』として明治43年に刊行物としてまとめられています(請求番号:市刊D78)。文書の原本は展示中ですが、刊行物は簡易閲覧することができます。ぜひ、当館にお立ち寄りの際には展示と合わせて閲覧室もご利用ください。
 企画展示は9月15日(火)まで続きます。8月7日(金)には当館にて関連講演会(要事前申込)も開催いたします。みなさま是非お越しください。

【今回とりあげた資料】
①資料件名:雑 公園改良設計調査第1回報告書一覧の件
 請求番号:602.A4.10 
 資料詳細(情報検索システム)
https://www.archives.metro.tokyo.lg.jp/detail?cls=collection_04&pkey=452775

②資料件名:東京市公園改良設計調査報告書
 請求番号:市刊D78
 資料詳細(情報検索システム)
https://www.archives.metro.tokyo.lg.jp/detail?cls=collection_07&pkey=000306956

#企画展  #公園  #本多清六  #日比谷公園  #尾崎行雄

住所

東京都国分寺市泉町2-2/21
Kokubunji, Tokyo
185-0024

営業時間

月曜日 09:00 - 17:00
火曜日 09:00 - 17:00
水曜日 09:00 - 17:00
木曜日 09:00 - 17:00
金曜日 09:00 - 17:00
土曜日 09:00 - 17:00

アラート

東京都公文書館がニュースとプロモを投稿した時に最初に知って当社にメールを送信する最初の人になりましょう。あなたのメールアドレスはその他の目的には使用されず、いつでもサブスクリプションを解除することができます。

ショートカット

共有する

カテゴリー